【Oahu島】 銅像


【ワイキキ】 ≪ 第7代カラカウア王像 ≫1836-1891              クヒオ通りとカラカウア通りの角の交差点に設置されている。第6代ルナリロ王が初めて選挙で選ばれ(このときカラカウアは落選)、ルナリロ王没後2回目の選挙で当選し第7代王となる。ハワイの伝統文化復活に尽力し、就任9年目にイオラニ宮殿前で戴冠式を決行し、「陽気な君主」として世界各国から来たお客さんをもてなし、豪華で盛大な祝宴が続けられた。音楽の才能もあり、「ハワイ国家 Hawaii Ponoi」を作詞。欧米や日本を含むアジア諸国も歴訪。日本に立ち寄った際は、姪の「カイウラニ王女」と「山階宮定麿親王」の縁談を明治天皇に提案したが、日本側が断り成立しなかった。


【ワイキキ】 ≪バーニス・パウアヒ・ビショップ王女の像≫                   ロイヤル・ハワイアン・センター内 ロイヤル・グローブ                       ハワイ王朝 カメハメハ大王のひ孫。ハワイの教育のため「カメハメハ・スクール」「ビショップ博物館」の建立に貢献しました。


【ワイキキ】 ≪カピオラ二女王の像≫  カピオラ二公園内

ハワイ王国7代王「カラカウア王妃」カウアイ最後のアリイ(首長)の孫娘。カメハメハの血筋ではないが、王家の血の流れている女性の一人です。カピオラニ王妃は1887年に、カラーカウア王の名代として、英語が堪能だった義理の妹リリウオカラニ王女を同行者に米国から大西洋を渡り英国を訪問。ビクトリア女王の在位50周年を祝うゴールデンジュビリーに参列。カピオラニ(Kapiolani)は「天国のアーチ」、又は「王家のアーチ」を意味します。女性の福祉向上のためハワイ各地でバザーやルアウを催して資金を集め1890年に産院を開設。1899年、64歳で亡くなりました。


【ワイキキ】インターナショナル・マーケット・プレイス1階中央にあるクイーンズ・コート

≪カメハメハ4世の妻クイーン・エマの像≫                              エマはカメハメハ大王の外戚筋で、ジョン・ヤングの孫にあたります。ジョン・ヤングはハワイでカメハメハ大王の重臣として仕え、ハワイ統一に大きく貢献したイギリス人です。エマ自身も親英派だったのは、彼女の血の8分の1はイギリス人だったということもあります。エマが4世と協力して1859年に完成させたクイーンズホスピタルは有名で、1967年には「Queen’s Medical center」に改称して現在も存続しています。カメハメハ4世の意志を継ぎ1885年に亡くなるまでアメリカによるハワイの支配に最後まで抵抗した王妃。

≪カメハメハ4世アレクサンダー・リホリホ像≫                            カメハメハ4世アレクサンダー・リホリホは、即位に先立って1854年にエマ・ルークと結婚。1862年には夫妻そろってイギリス国教会に入信。イオラニ・スクールなど英国国教系のミッションスクールも設立。

≪愛息アルバート・エドワード王子の像≫                                    1862年、わずか4歳のときに事故で亡くなっててしまいました。翌年1863年、カメハメハ4世も29歳の若さで亡くなります。

エマ王妃のサマーパレス

【ワイキキ】≪ドン・ホーの銅像≫ インターナショナル・マーケット・プレイス1階「タイニーバブルズ」や「アイル・リメンバーユー」」などのヒット曲で知られるハワイを代表するエンターテイナーとしてワイキキを中心に活躍。2007年4月に76才で死去。


【ワイキキ】 ≪デューク・カハナモク像≫「サーフィンの神様」ハワイのヒーロー

1912年「ストックホルムオリンピック」 100m自由形 金メダル                  1920年「アントワープオリンピック」 100m自由形 金メダル                 生誕100年の記念として1990年に建てられました。


【ワイキキ】 ≪Makua and Kila(マクアとキラ)の銅像≫                              少年・・・Makua    ハワイアンモンクアザラシ・・・Kila                       フレッドヴァンダイクによるハワイ童話「マクアとキラ」を基にして造られた銅像といわれています。


「波に乗るサーファーの銅像」                                      サーフボード下の青い波(緑色⁈)も一緒に・・・ワイキキビーチの一番端の「カピオラ二公園」側にあります。


【ワイキキ】≪プリンセス カイウラニ像≫Princess Kaiulani Hotelクヒオ通り沿い

カイウラニ王女が好きだった『ピカケ(クジャク)』が一緒です!生まれてすぐカラカウア家に養女に出され、そこでプリンセスとして養育されました
カラカウア王が、日本の明治天皇に カイウラニと日本の山階宮の縁談を相談したとき、彼女はまだ5歳でした。1889年から、彼女はカラカウア王の指示でイギリスに留学します。留学中にカラカウアは死去し、叔母のリリウオカラニから王位継承権第1位を指名されることになります。ヨーロッパ社交界の教養も身につけ、もともと美しい顔立ちだった彼女はイギリスやフランスでも社交界の華でした。ハワイの政変が続き彼女の帰国は延び続け、ついに<ハワイ王朝崩壊>の知らせを受けます。知らせを受け、即決でイギリスを発ちアメリカに向かいました。このとき、ニューヨーク港では、事件を知った記者たちが「『野蛮なハワイ人の娘』が嘆願にやってくるらしい」ということで待ち構えていました。ところが、カイウラニの洗練された容姿と感動的なスピーチに、記者達は驚きニューヨークのマスコミは一気にハワイ王朝の味方になったのです。1897年、指導力を欠く共和国では、白人社会の世論でも「カイウラニが女王になってくれればハワイは再び希望が持てる」という意見が噴出。1897年11月、カイウラニは8年ぶりにハワイに帰国し、ホノルル港はハワイ市民の大勢の出迎えがありました。共和国政府も「ミス・カイウラニを<プリンセス・カイウラニ>と呼んでかまわない」という正式コメントを出したといわれています。しかし1898年、米西戦争の影響で、太平洋防備を焦ったアメリカは急遽ハワイ併合を決意。そして翌1899年、病気のためカイウラニはわずか23歳5ヶ月の生涯を閉じたのです。ハワイ最後の希望の星が消え、ハワイの新政府には、ハワイ市民や全米から非難と抗議の手紙が殺到したそうです。
(参考資料  白い孔雀  Hawaiiの神話と伝説)

2014年10月16日カイウラニ王女の誕生日カイウラニ像にレイを捧げました。


【ワイキキ】  ≪クヒオ王子像≫                                       ハワイアンの政治家として初めて米国下院議員に選出されアメリカ議会に出席。アメリカの領土となったハワイで生涯ハワイアンの擁護のために尽くし人々から『庶民の王子』と呼ばれました。


【ワイキキ】 <ストーリテラー像>                                     語り部(伝統文化・歌や昔話を語り継ぐ)女性の像。マウイ生まれの日系人「シゲ・ヤマダ」さんというハワイの代表的な彫刻家の作品です。


【ワイキキ】≪ギャビーパヒヌイ銅像1921年~1980年≫                     ワイキキ・ビーチウォーク                                     ハワイで有名な伝説のミュージシャン   2017年5月建立
ワイマナロの自宅で、仲間たちと一緒に音楽を楽しむジャム・セッション≪Kanikapila≫を行っていたそうです。≪Kanikapila≫・・・ハワイ語で「皆で集まって歌や楽器演奏でセッションして楽しむ」という意味です

  


【ワイキキ】 ≪ガンジーの銅像≫                                   カピオラニ公園からホノルル動物園に向かう途中の木陰にひっそりと建っています。ガンジーとハワイの接点は無い?!ようなのですが、世界の中では動物園の前にガンジー像が置かれているところが多いそうです。ガンジーが残した「国の偉大さ、道徳的発展は、その国における動物の扱い方で判る」という言葉があるようです。


【ダウンタウン】 <カメハメハ大王像>                                    高さ5.5mの銅像は、オアフ島で1番人気の記念撮影スポットです。カメハメハ1世の像は、現在ハワイ州内には3か所にあります。オアフ島ホノルルのダウンタウン(フィレンツェのトーマス・グールド制作)カメハメハ生誕地であるハワイ島北部「カパアウ」とハワイ島の「ヒロ」に建つカメハメハ大王像がオリジナルです。1880年代にパリで作られホノルルに送られるはずだったのですが、輸送中の船が南大西洋のホーン岬付近で沈没してしまい、急遽2体目が製作された像がホノルルのカメハメハ大王像です。

毎年6月11日のカメハメハ・デーは大王の功績を記念する祝日 セレモニーで大王像に長いフラワーレイを掛けてお祝いします。

  

  


【ダウンタウン】<第8代リリウオカラニ女王の銅像> (ハワイ王朝最後の女王)

州政府ビルのイオラニ宮殿側に建っています。1891年、カラカウア王が渡米先のサンフランシスコで客死後、リリウオカラニが女王として即位。共和制派との対決姿勢を強め、1892年ハワイ人らの新憲法制定の請願を受け、1893年1月14日国王権限を強化する憲法草案を閣議に提出したが否決。1月16日<王政派>と<共和制派>が共に2大集会を開く中、危機感を募らせた共和制派は、米国のスティーブンス公使の要請によりアメリカ海兵隊がイオラニ宮殿を包囲、翌17日には共和制派が政庁舎を占拠し、ハワイ王政廃止と臨時政府樹立を宣言した(ハワイ革命)。ハワイにとって激動の4日間となりました。アメリカ政府は、この「革命」が不法なものであると認め、スティーブンス公使を更迭すると共に調査団を派遣したが臨時政府はこれを内政干渉とした。これに対し1894年2月の調査団が<共和制派>を支持する報告書をまとめた。(アメリカ大統領交代等の政権によりハワイ王国へ考え方の違いがあり、アメリカ政府の対応の変化にもハワイ王国は翻弄されていた。)ハワイ王国を守るためハワイ人による反対集会が繰り返される中、1894年7月4日、臨時政府はサンフォード・ドールが大統領となり<ハワイ共和国>の独立宣言を行なった。翌1895年<ハワイ王政>派が反乱を起こすが、数日の銃撃戦の後に新政府軍に鎮圧された。1月16日リリウオカラニは反乱の首謀者の容疑で逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉された。1月22日、反乱で捕らえられた約200人の命と引き換えに、リリウオカラニは女王廃位の署名を強制され、ハワイ王国は滅亡した。リリウオカラニは2月27日、反乱に加担した罪で5,000ドルの罰金と5年間の重労働の判決を受けたが、9月6日に釈放された。
<参考文献 ハワイ王朝最後の女王  他>

    

ワシントンプレイス脇にリリウオカラニが作った曲「Aloha `Oe」の石像があります。

     


【ダウンタウン】<ダミアン神父の銅像>                                 州政府ビルの山側に建っています。「モロカイ島」でハンセン病患者のケアに生涯を捧げました。州政府ビルに掲げられている紋章には、ハワイのモットー『UA MAU KE EA O KA AINA I KA PONO』の文字が書かれています。


【ダウンタウン】アロハタワー  <フラガールの銅像>


【西オアフ ワイアナエ】 イズラエル・カマカヴィヴォオレの銅像                (Israel Kaʻanoʻi Kamakawiwoʻole 1959年5月20日~1997年6月26日)                  伝説のハワイアンシンガー。通称イズ(IZ)340kgを超える巨体から美しい歌声で魅了し、肥満が原因で38歳で死去。7月10日に行われた葬儀の日にはハワイ州旗が半旗となった。 銅像はワイアナエの「コミュニティセンター」に建っている。後部は空洞になっており独特な銅像。